2013/05/29

カンボジアで感じたこと。

Place: カンボジア シエムリアップ

カンボジアへのチケットが取れたとき、私の中で浮かんだのは「小学校を訪れたい」という思いでした。


カンボジアを訪れたいと思ったきっかけは、「アンコールワットが見たい!」だったけれど、それと同時に浮かんだのは、カンボジアの悲しすぎる過去と、今なお貧しい暮らしをしているという現実。
大した知識があったわけではないけれど、無知であったわけでもない。
そしてその現実を、自分の目で見たいと思ったの。



早速ネットで現地のガイドさんを検索。
そこで見つけたガイドさんに、「小学校と現地の人の暮らしが見たいです」という要望を書いたメールを送りました。
返ってきた答えは・・・、「4月は小学校お休みです」。



がーーーーーん(((゜д゜;)))



そうです、4月はカンボジアのお正月。
学校はお休みなのです。
みなさん、気をつけましょう(+_+)



でも、代案として「孤児院になら行けます」と教えてくれたガイドさん。
迷うことなく、「お願いします!」と返信しました。



そんなこんなで、孤児院と村を訪れることになったわたし。
訪れるなら、何か持っていきたいなと思ったわたしは、ガイドさんに相談して文房具を持参することにしました。



カンボジアにも、文房具は売っています。
ただ、みんながそれを買えるわけではない。
学校自体に行けていない子も多く存在するのが、カンボジアの現状です。



出発直前に文房具を大量購入。
孤児院には約90人の子どもがいると聞いたので、100人分を用意。
スーツケースに何とか詰め込み、お菓子や飴もプラス。



現地では、一つの孤児院と、二つの村を訪れました。
私が訪れた孤児院では、いつか子ども達が自立できるよう、手に職を与える仕組みづくりがされているようでした。作品が売れたら、子ども達にもいくらか入ってくる。
子ども達は一生懸命に作品づくりをしていました。




みんな作業中だったので、一人ひとりに手渡しは出来なかったけど、館長さんに渡したら、その場にいた子ども達を集めてくれて集合写真を撮ることができました。前の列の子たち、カメラじゃなくて私の方ガン見してる(笑)
手を合わせて「オークン」(ありがとう)と言ってくれて、車で帰るときには外まで出て手を振ってくれる子どももいました。



でも、「ありがとう」は私の台詞だな・・・と。
私は「何かしたい!」と思って動いたわけではなくて。
それはもう、日本で誰かの家に行くときに手みやげを持参するのと同じで、孤児院を訪れる→何か手みやげ持っていこう!って感覚でした。
結果的にそれが、子ども達の喜ぶものであって欲しかったし、それが子ども達の役に立つことができるなら、すごく嬉しいこと。



誰かに何かを渡すときに私はやっぱり「ありがとう」という気持ちになる。
なんだろう。
素直に、単純に、嬉しい気持ちになるのよね。
「こうしたい」と思ったり、「プレゼントしたい」と思う気持ちにさせてくれたこと自体に、「ありがとう」って言いたくなる。


あれから約2か月が経つ。
あの鉛筆で、何を書いてるんだろう。
あの色鉛筆で、どんな絵を描いているんだろう。


そんなことが、頭をよぎります。


現地の方の暮らしを見たくて、村にも連れていってもらいました。


「貧しくても、子ども達の笑顔はキラキラしてる」と、よく本やテレビで聞くけど、でもどうだろう。
どんなに知識をつけたとしても、どんなに本やテレビでその国を知ったとしても、実際に訪れないと見れない姿が必ずある。
結局、誰かの体験談は、その人の視点で切り取られた一部に過ぎないのだから。



私のこの旅行記もそう。
これは私が観たカンボジア。
これを読むあなたが、同じ場所を同じ時期に訪れたとしても、感じ方や見る視点は大きく変わってくると思うのです。



自らの足で訪れて、肌で感じ、自分の心の動きを知る。
これが凄く大切なことなんだなと、カンボジアを訪れて改めて思いました。



二つ目の村は、みんな笑顔で人なつっこくて、言葉なんかなくとも、笑顔で通じてるような感じだった。
だけど、最初の村は、衝撃的でした。






二つ目の村も貧しいのだけど、一つ目に訪れた村はそれ以上に貧しい村。
車を止めて降りた瞬間、子ども達が私たちの周りを囲むように集まってきました。



次から次へと集まってくる子どもたち。
まだ村の入り口にしか足を踏み入れていなくて、本当は奥まで行こうとしていたものの、奥の方から子どもたちが走ってこっちに向かってくるのが見えました。



もはや、尋常じゃない集まり方。
日本から持ってきた沢山の飴を子ども達に配ります。
増え続ける子ども達に列を作ってもらい、一人づつ渡していく。
だけど、列はすぐに乱れて、あっちこっちから手が伸びてきました。
片方の手にいくつもの飴を隠し持って、手を伸ばしてくる姿。
次第にエスカレートしていき、奪うように飴に手を伸ばしてくる子もいました。



列を乱したのがイケナイとかじゃない。
それが衝撃だったわけでも、もちろんない。



衝撃だったのは、子ども達の顔だった。
ガイドさんに「飴は子ども達が喜びます」と言われて持参した飴。
持っていったのは、正解だったと思う。
どこへ行くにも、飴は子ども達を一瞬で笑顔にしてくれたから。



だけど、この村の子どもたちの顔は笑顔というよりは、とにかく必死だった。
必死で、そして目が笑っていない子も多かった。
キツイするどい目をした子どもが多く、どんどん集まり続ける子ども達。



一緒に行動していた夫婦が持ってきた服も、ここの村に寄付しようという話で立ち寄ったのだけど、状況が状況だけに、これ以上留まることは「危険」ということで、私たちは村の入り口で引き返すことになりました。


子どもたちに囲まれながら、急いで車に乗った私の手には切り傷ができていていました。
車の窓を叩く子どもや、車から離れようとしない子どももいました。



「なんて場所なんだ」って事を言いたいわけではないし、危険だから行かない方が良いと伝えたいわけでもないです。
ただ、自分の目で見るって、こういう事なんだなと思ったの。


アンコールワットを見て、観光客が集まるパブストリートでご飯を食べて、最近増え始めたリゾートホテルに宿泊して・・・それでは、カンボジアという国を「知った」ことにはならなかっただろうなって。


色んな旅のカタチがある。
今挙げたのも、一つの旅のカタチ。
何が良くて何が悪いとかではなくて、自分が「何を選ぶか」。



孤児院や村を訪れたり、シェムリアップにあるキリング・フィールドで残虐な過去に触れてみたり、それだけでカンボジアを知れたとは言えないけれど、でも、ほんの少しでも何かを感じることはできた。
ガイドブックには載っていないカンボジアを見ることができたなと、思ってます。



自分の目で見た中で感じたのは、「可哀想」って思うのは、違うなって。



裸足で歩く子どもや、電気や水道が通っていない村で暮らす人たち。
村で出逢った子どもや、孤児院で出逢った子どもたち。



物に恵まれていないのは事実で、日本人の目から見ると、それは「可哀想」であり「不幸」にも思えるものなのかもしれない。
だけど、それは私たちの基準でしかない。



彼らの人生を、私たちの物差しで「可哀想」「不幸」って決めつけるのは、違うなと思ったの。



確かに最初に訪れた村での子どもたちの顔は強ばっているようにも見えて、飴を奪い合う姿からは決して「しあわせ」という言葉とは遠い気がしたのは事実。



だけど一方で、家族との結びつきが強いのがカンボジア。
物が溢れながらも、どんどん希薄になりつつ日本の姿と、どちらが幸せか?と聞かれて、私は答えを出すことはできない。
そして、答えを出す必要もないのだなって思う。



どちらが幸せで、どちらが可哀想だなんてのは、誰も決められない。
決めるのは、私たち一人ひとりであって、カンボジアにいる彼ら一人ひとりのはず。



私たちが、彼らの暮らしを見て、日本とは全く異なる光景を目の当たりにしたときに「可哀想」って感じるのは、もはや違うんじゃないか・・・って思ったのが、今回の旅で感じたことの一つです。



可哀想とか、不幸とかの言葉をリンクするのではなくて、目の前にいる「一人の人間」と対等に接する。
物やお金を支援するのは、「可哀想」だからでも、「不幸」だからでもない。
自分の友達が困っていたら助けるように、目の前の人が転んだら手を差し伸べるように、できる人ができる事をする。そういう事かなって。



ただ、私は物乞いや子ども達に、直接お金を渡すことはしないです。
それはどの国へ行ってもそう。
これは賛否両論あって、少額でも渡せばいいじゃん!って人もいれば、渡しちゃダメだ!って人もいる。
私は、今の段階では、後者の意見を持って行動しています。
確かにお金を渡せばそれで何か一つでも解決される事があるのかもしれない。
だけど、根っこの部分は何も変わらない。
「観光客からお金を貰える」と知ってる人は、なかなか働こうとしないという事実もある。



何かを買って渡すこと、飴を渡すこと、ジュースをあげること、それとお金をあげることは何が違うのか。
いつも考えさせられるし、自分の中で明確な答えが出せずにいる。
だけど、現時点では「お金そのものは渡さない」。これが私の一つの答え。
これはこの先変わるかもしれないし、この答えにより明確な理由を見つけることができるかもしれないし、それは分からない。



もちろん、私の考えが正しいわけじゃない。
いや、可哀想でしょ!幸せじゃないに決まってる!って思う人だって沢山いると思うし、じゃあその人が間違っているかと言うと、そうじゃない。
事実は一つでも、それを見て感じる想いや考えは何通りあっても良い。



実際に訪れて、自分の心で感じて、頭で考えたことを、一つの答えとして持っていればいいだけのこと。
私には、私の目で見て感じて、頭で整理した答えがある。
もしかしたら、違う国を訪れたり、また違った時期に訪れたりしたら、その考えだって変わるかもしれない。
それで良いのよ。



ただ、いつだってそういう現実から目をそらしたくはないし、考えることを止めたくはない。



何ができるわけでもないけど、何もできないわけでもない。
文房具を渡しただけでは、飴をあげただけでは、何にも変わらないのかもしれない。
だけど、彼らにとってその日が、少しでも嬉しい一日だったり、飴を食べた瞬間笑顔になってくれるなら、それは「何も変えられないわけではない」って思うの。



友達と二人でいて、私だけケーキを貰ったなら、私はそのケーキを友達とシェアしたいって思う。
試験のとき、隣の席の子が消しゴムを忘れてたら、自分の消しゴムを半分に切って渡すと思う。



支援とかって、そういうことじゃないかな?



何か大それたことじゃなくていい。
自分が何かしたって、結局変わらないって思ったり、何か大きな事しなきゃ!って思うから、訳が分からなくなっちゃうような気がする。



「一人の人を笑顔にする」
それで良い気がする。



シェアするという感覚で、世界が繋がっていけば良いなと思いました。



カンボジアに行ってから約2か月が経とうとしている事に驚き。
カンボジアの旅行記もこれで最後ですヾ( ´ー`)



カンボジアで見た景色、一緒に笑ったガイドさんや大阪にいる夫婦、歩いて感じた遺跡の尊さ、一人で過ごした時間。
あの日あの時感じたことを、忘れたくはないし、きっと忘れない。



素敵な旅になりました。



そしてきっと、また訪れるカンボジア。
未来の私が、何をどう感じるのか、それもまた楽しみです。



長い文章を読んでくださって、ありがとうございました。



最後に、孤児院の壁に書かれていた言葉。
「Nothing is impossible, it's your choice.」


「不可能なことなんて何もない。
全ては自分次第。」



沢山のことを教わった気がします。


0 件のコメント:

コメントを投稿

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...